四季彩綴り

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室津賀茂神社

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  1. 兵庫
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観梅シリーズも一応区切りが付きましたので、少し時間を遡りますが、播州の世界の梅公園に出掛けた折に立ち寄った室津のお話を。
 

室津は奈良時代に行基が築いたといわれる五つの泊(とまり)の一つとされる湊。
この五つの泊は摂津から播磨にかけて所在することから「摂播五泊」とも呼ばれ、その中にはあの「大輪田泊」も含まれています。




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古くから天然の良港として栄えていたようですが、それは『播磨風土記』に「この泊り風を防ぐこと室の如し」と記された地形によるもので、「室津」の称もこれに由来するようです。





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何分にも小さな港町のこと、車の擦れ違いも難しい細い路地を右往左往しながらどうにかお目当ての賀茂神社に到着。




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(この画像の拡大表示は こちらをクリック のこと)

賀茂神社は京都の上賀茂神社の御厨(神社の有する荘園のようなもの)の一つで、その主祭神の賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)を勧賞して平安時代末期より以前に創建されたもののようです。

ここで「平安時代末期より以前」と曖昧な書き方をしたのは、確かな創建時期は不詳ながら、ある一つの記録により治承4年(1180)には存在していたと認められるためです。

その書とは「高倉院厳島御幸記」。

高倉院は後白河法皇の皇子で母は建春門院平滋子。
滋子は平清盛の清盛の妻時子の妹に当たり、そのバックアップで帝位に就いたような人物ですが、やがて清盛の娘・徳子を妃に迎え皇子が生まれると、幼い皇子に帝位を譲り上皇として院政を執ることになります。

その高倉上皇が譲位後まもなく行った安芸の厳島神社参詣の旅の模様を綴ったものが「高倉院厳島御幸記」で、旅の途上ここ室津に立ち寄り、山の上にある賀茂神社に参拝したとの記載が見られます。

そのくだりでは、この賀茂神社が京の上賀茂神社の御厨で、その祭神を勧請して創建されたことや、社殿が「五、六大やかに」並び建つ大規模なものであったことなども記されています。




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まずは石鳥居をくぐり境内へ。




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参道にはソテツが植わっていて、野生状態の群生林では日本列島の北限として県の文化財にも指定されているそうです。





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参道の奥には表門の四脚門。




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柱には「平清盛参拝の社」という額も掛かっておりました。
当時の情勢を鑑みれば、清盛がこの神社の最有力のパトロンだったと見て間違いないでしょうね。ちなみに昨年の大河ドラマの紀行(第34回・9/2放映)にも室津賀茂神社が取り上げられていました。





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四脚門を内側から。
横に並ぶ蔵は「二の神庫」(「一の神庫」は石鳥居の横にあったものです)




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振り返って境内は左に手水舎があって、右に並ぶのが国の重要文化財に指定される社殿群。




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手水舎の脇には早咲きの桜も咲いていました。
もう結構散っていましたけどね。




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(この画像の拡大表示は こちらをクリック のこと)

左右に居並ぶのは狛犬ならぬ狛馬。




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鞍の部分に賀茂神社の神紋の二葉葵が入っています。
恐らく上賀茂神社のくらべ馬が由来なのでしょうね。




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重要文化財の唐門。




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提灯や背後の幕にも二葉葵の紋が。




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回廊の隙間から本殿等の社殿群。




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唐門から後ろを振り返るとそこに建つのは拝殿。
こういうふうに拝殿と本殿が離れて建っているものを「飛び拝殿」と言い、珍しい形態のようです。

元々は境内に一般人が立ち入ることは禁じられていて、海から遥拝するのが通例であったのではないかと考えられています(この拝殿の背後がすぐ海という位置関係)。




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拝殿の隣には絵馬堂が建ち、その一角には神馬舎もあり、白馬の像が安置されていました。





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笑っているようにも見える表情が何だかちょっとおかしくて、こちらも思わずふっと笑いが込み上げて来ました。





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絵馬ももちろん馬の図案。
神社所蔵の狩野元信筆「神馬図額」の模写と書かれていました。





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絵馬といえば絵馬堂の向かい側にも、たくさんの絵馬が掛かっているところが。




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賀茂の愛の榊?




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二本の榊の古木が途中から一本に結合した連理木になっていて、「比翼連理」の喩えに倣い縁結びや夫婦和合にご利益があるとされています。




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少し見づらいですが、こちらの絵馬も「連理の榊」が描かれています。





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さて、最奥まで行くとまださらに道が続いており、とりあえずそのまま進んでみることに。




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途中梅の花も咲いていたりしましたが(画像は復路に撮ったもので逆向きです)、さらにずんずん進むと




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海に出てしまいました (^_^;)
ここの社は楫取社(住吉社)となっていました。





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で、さらに下って行くと室津港へ。





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昨今は牡蠣の水揚げ漁港として知られ、直売所もたくさんありましたよ (^_^;)





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この室津湾は平家全盛期の高倉院厳島御幸の舞台であると共に、清盛死後の衰退期には戦場にもなりました。それも平家としては数少ない勝ち戦!

ただ、相手がお世辞にも戦上手の噂など全く聞こえて来ない源行家だったおかげもあって、数ある源平の戦の中でもどうも影の薄い存在になっていますね。

都落ちして一旦九州まで退いた後、徐々に体勢を立て直して東へ進軍した平家方は岡山県の水島で木曽義仲軍を撃破して、その余勢を駆ってここ室津に着陣。

一方の木曽は都の情勢穏やかならずとの報を受け、逆襲に出るまでもなく撤退し、それと入れ替わりにやって来たのが叔父に当たる源行家。義仲の援軍に駆け付けたとも、朝廷に讒言して義仲を貶め自分が取って代わろうとした策謀とも諸説ありますが、実際のところはどうだったのでしょうね。

行家は熊野の生まれで、同母姉が熊野別当家に嫁いでいましたから、熊野水軍との縁も浅からず、海戦の相手としては山育ちの義仲よりはいくらか上手のような気もしますが、結果は生きて落ち延びられたのは奇跡と思えるほどの大惨敗。


この合戦でさらに勢いをつけた平家軍は、知盛らが即時上洛を主張したのに対し、総大将の宗盛は時期尚早と退け、ひとまず旧都・福原を拠点に据えて運命の一の谷の合戦を迎えることとなるのですが、もし知盛の意見を入れて一気に上洛となっていれば…、

義仲は法住寺合戦を起こし一旦は権力を掌握したものの、これによりいっそう都人の反感を買い四面楚歌への道をまっしぐら…という状態でしたから、痛手を蒙った直後の後白河院や朝廷を上手く抱き込めれば平家の都奪還もそう難しいことではなかったでしょうし、一時的でも朝敵の汚名をそそぐことができていれば、鎌倉軍も大義名分を失って容易に攻め入ることができず、その後のパワーバランスも全く変わっていたかもしれない…。

そういう意味では義仲を討ち果たした後、京に長居せず、すぐさま平家追討に向かった鎌倉軍の機敏さと、上洛を躊躇した平家軍の悠長さが時勢の流れを決定づけたのかもしれませんね。


【撮影日:平成25年3月9日】


《メモ》
  室津賀茂神社 【地図】
   兵庫県たつの市御津町室津75
   TEL:079-324-0034 


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